イシュトヴァーン・ドボー
この項目では、インド・ヨーロッパ語族風に、名前を名姓順で表記していますが、ハンガリー語圏の慣習に従いドボー・イシュトヴァーンと表記することもあります。(Template:ハンガリー人の姓名)
イシュトヴァーン・ドボー | |
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イシュトヴァーン・ドボー | |
生誕 | c. 1502年 |
死没 | 1572年6月 セレーニェ(現ウクライナ) |
軍歴 | 1548年 - 1569年 |
戦闘 | エゲル包囲戦 |
バロン・イシュトヴァーン・ドボー・デ・ルスカ (ハンガリー語: Báró ruszkai Dobó István 1502年ごろ - 1572年6月中旬) は、ハンガリー王国の軍人。エゲル包囲戦におけるオスマン帝国に対する勝利で知られる[1] 。ドボーはハンガリー北部に領地を持つ貴族で、モハーチの戦い以降のハンガリー王位をめぐる内乱では、一貫してハプスブルク家のフェルディナーンド1世の側についた。
生涯
1498年に結婚したドモンコシュ・ドボーとゾーフィアの間には、フェレンツ、ラースロー、イシュトヴァーン、ドモンコシュ、アンナ、カタリンという6人の子がいた。イシュトヴァーン・ドボーは1550年10月17日にシャラ・シュヨクと結婚し[2]、フェレンツ、ダミヤーン、クリスティナという3人の子をもうけた。
1549年、ドボーはエゲル城の司令官となった。1552年、彼は2100人の守備兵で8万人のオスマン軍の攻撃に耐えたことで有名になった。その功績により、フェルディナーンド1世はドボーにトランシルヴァニアのデーヴァ城(現ルーマニア・デヴァ)とサモシューイヴァール城(同ゲルラ)、さらにトランシルヴァニアのヴォイヴォダの位を与えた。1556年にトランシルヴァニアがハンガリーから分離した際には、補償としてレーヴァ(現スロバキア・レヴィツェ)を与えられた。
しかし1569年、反逆の嫌疑を受けてポジョニ城(同ブラチスラヴァ)に幽閉された。牢内で健康を害し、1572年に釈放されてまもなくセレーニェで没した。