カイザースヴェルト包囲戦 (1702年)
カイザースヴェルト包囲戦 | |
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包囲の地図 | |
戦争:スペイン継承戦争 | |
年月日:1702年4月18日 - 6月15日 | |
場所:ベルク公国、カイザースヴェルト(英語版) | |
結果:同盟軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
神聖ローマ帝国 | フランス王国 |
指導者・指揮官 | |
ナッサウ=ウジンゲン侯ヴァルラト(英語版) | ブランヴィユ侯爵(フランス語版) |
戦力 | |
兵士38,000 大砲80門 臼砲59門 榴弾砲6門 手持臼砲(英語版)70門 | 兵士5,000 大砲30門 |
損害 | |
死傷者2,800 | 死傷者350 |
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カイザースヴェルト包囲戦(カイザースヴェルトほういせん、英語: Siege of Kaiserswerth)はスペイン継承戦争中の1702年4月18日から6月15日まで行われた攻城戦。神聖ローマ帝国元帥のナッサウ=ウジンゲン侯ヴァルラト(英語版)率いる、総勢3万8千人と大砲120門を有するプロイセンとオランダの連合軍はニーダーライン(英語版)地方にあるカイザースヴェルト(英語版)の小さな要塞を包囲、占領した。カイザースヴェルトはフランス軍が前年に抵抗も受けずに占領していたが、オランダは要塞の奪還を(同じくフランスに占領されていた)スペイン領ネーデルラントへの進軍よりも重要視した[1]。
経過
オランダの攻城戦専門家メンノ・フォン・クーホルンがいないため、包囲戦の遂行は拙劣であり、時間がかかった上に死傷者多数だった。プロイセン軍は火薬と弾薬が足りず、工兵と攻城砲も数少なかったため、オランダ軍から借りる始末だった。一方、オランダ軍の包囲線が進みすぎてプロイセン軍が追い付かず、さらにフランスの増援や悪天候も重なって5月に予定されていた城塞への強襲は延期を重ねた。そのため、要塞への砲撃が4月18日に始められた後、オランダ軍は1週間後を目処に外壁を占拠しようとしたにもかかわらず、実際に強襲が行われたのは6月9日のことだった[2][3]。
フランス守備軍の指揮官ブランヴィユ侯爵ジュール=アルマン・コルベール(フランス語版)は6月10日にフランス元帥ルイ・フランソワ・ド・ブーフレールに報告を送り、同盟軍の強襲部隊が「草刈り人の大鎌にかかった草のように」斜堤で「刈り取られた」(撃破された)と述べた。要塞の守備を務める工兵はセバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンの助手ルイ・フィレ(Louis Filley)だった。駐留軍はやがて6月15日に降伏したが、同盟軍は6月9日だけで死傷者2,800人(うち2,101人はオランダ軍)を出しており、しかもヴォーバンがただの「穴」と呼んだ要塞を2か月かけてようやく落とせた。駐留軍は降伏した後、栄誉をもって要塞から退去した[1][3][4]。
脚注
- ^ a b Bodart 1908, p. 125.
- ^ Ostwald 2006, p. 141.
- ^ a b Ostwald 2006, p. 243.
- ^ Ostwald 2006, p. 187.