カールマン (東フランク王)
カールマン2世 カルロマンノ Karlmann | |
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東フランク国王 イタリア王 | |
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在位 | 876年 - 880年(東フランク王) 877年 - 879年(イタリア王) |
出生 | 830年頃 |
死去 | 880年 アルトエッティング |
埋葬 | アルトエッティング |
配偶者 | ノルトガウの伯エルンストの娘 |
子女 | アルヌルフ(庶子) |
家名 | カロリング家 |
王朝 | カロリング朝 |
父親 | ルートヴィヒ2世 |
母親 | ヘンマ・フォン・シュッセンガウ |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
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カールマン2世(ドイツ語:Karlmann II, 830年頃 - 880年)は兄弟と共同統治したカロリング朝第2代東フランク王でバイエルンを担当(在位:876年 - 880年)、さらにイタリア王としてカルロマンノ(在位:877年 - 879年)。ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)とその王后でシュッセンガウ伯ヴェルフの娘ヘンマ(古ヴェルフ家)の息子。
生涯
872年、従兄の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ2世により帝位継承者に定められていたが[1]、875年に皇帝が死去した後、叔父である西フランク国王シャルル2世が教皇ヨハネス8世により神聖ローマ皇帝とされた。876年、父ルートヴィヒ2世の死去を受け、カールマンは弟のルートヴィヒ3世・カール3世とともに父の遺領を分割し、バイエルンを継承した。さらに、877年の西フランク国王シャルル2世の死去を受け、東フランク王国の君主として初めて「イタリア王」の称号も獲得した。879年、カールマンは病を得て身体が不自由になり、ルートヴィヒ3世にバイエルンの王位を、カール3世にイタリア王位を譲り、翌880年死去した。
子女
861年以前に、ノルトガウ伯エルンストの娘(名前不詳)と結婚したが、子供はいなかった。
リウスヴィントとの間に、庶子で後に東フランク国王となるアルヌルフがいる。
脚注
- ^ 瀬原、p.52
参考文献
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カロリング朝第2代東フランク王(バイエルン担当)(876年 - 880年) | |||||||
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歴代ドイツ君主・盟主 | |||||||
カロリング朝 |
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ザクセン朝 |
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ザーリアー朝 |
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ホーエンシュタウフェン朝 |
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大空位時代 |
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非世襲期 |
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ハプスブルク家 |
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ハプスブルク=ロートリンゲン家 | |||||||
ライン同盟 |
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連邦主席 |
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ドイツ皇帝 |
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イタリア王(877年 - 880年) | |
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カロリング朝 | カルロ・マーニョ774-814 / ピピン(父と共治)781-810 / ベルナルド810/3-818 / ロドヴィコ1世818-840 / ロターリオ1世818/22-855 / ロドヴィコ2世844-875 / カルロ2世875-877 / カルロマンノ877-879 / カルロ3世879-887 |
諸家対立王 | ベレンガーリオ1世888-894 / グイード889-894 / ランベルト891-898 / アルノルフォ894-899 / ラトルド(父と共治)896 / ベレンガーリオ1世(復位)896-924 / ロドヴィコ3世900-905 / ロドルフォ922-926/33 / ウーゴ926-947 / ロターリオ2世945-950 |
アンスカリ朝 | |
ザクセン朝 | オットーネ1世951-973 / オットーネ2世980-983 / オットーネ3世996-1002 |
アンスカリ朝 | アルドゥイーノ1002-1014(1004より対立王) |
ザクセン朝 | エンリーコ2世1004-1024 |
以後、神聖ローマ皇帝参照 カテゴリ |
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