フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)

フリードリヒ・フランツ4世
Friedrich Franz IV.
メクレンブルク=シュヴェリーン大公
在位 1897年4月10日 - 1918年11月14日

出生 (1882-04-09) 1882年4月9日
イタリア王国の旗 イタリア王国パレルモ
死去 (1945-11-17) 1945年11月17日(63歳没)
連合国軍占領下のドイツ、フレンスブルク
配偶者 アレクサンドラ・フォン・ハノーファー
子女 フリードリヒ・フランツ
クリスティアン・ルートヴィヒ
オルガ
ティーラ
アナスタージア
家名 メクレンブルク=シュヴェリーン家
父親 フリードリヒ・フランツ3世
母親 アナスタシア・ミハイロヴナ
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フリードリヒ・フランツ4世Friedrich Franz IV., 1882年4月9日 - 1945年11月17日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国大公(在位:1897年 - 1918年)、およびメクレンブルク=シュトレーリッツ大公国の摂政(在位:1918年)。

来歴

1882年4月9日、フリードリヒ・フランツ3世とその妃であったロシア大公ミハイルの娘アナスタシア(1860年 - 1922年)の長男としてパレルモで生まれた。1897年に父フリードリヒ・フランツ3世が死去したことを受けて大公位に即くが、幼少のため1901年まで叔父のヨハン・アルブレヒト摂政を務めた。1918年には、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公アドルフ・フリードリヒ6世が自殺したため摂政に指名された。同年ドイツ革命が勃発すると、11月14日ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のオランダ亡命から4日後)に退位を宣言し、デンマークへ移住した。その後、1945年11月17日フレンスブルクで死去した。

フリードリヒ・フランツ4世の退位宣言書(1918年11月14日付)

結婚と子女

フリードリヒ・フランツ4世は1904年に元ハノーファー王太子エルンスト・アウグストの娘アレクサンドラと結婚した。彼女との間には以下の2男3女をもうけた。長男のフリードリヒ・フランツは子供がおらず、次男クリスティアン・ルートヴィヒには娘しかいなかったため、メクレンブルク=シュヴェリーン大公家の男系は2001年に断絶した。

  • フリードリヒ・フランツ・ミヒャエル・ヴィルヘルム・ニコラウス・フランツ=ヨーゼフ・エルンスト・アウグスト・ハンス (1910年 - 2001年) - 大公世子
  • クリスティアン・ルートヴィヒ・エルンスト・マクシミリアン・ヨハン・アルブレヒト・アドルフ・フリードリヒ (1912年 - 1996年)
  • オルガ(1916年 - 1917年)
  • ティーラ・アナスタージア・アレクサンドリーネ・マリー=ルイーゼ・オルガ・ツェツィーリエ・シャルロッテ・エリーザベト・エンマ (1919年 - 1981年)
  • アナスタージア・アレクサンドリーネ・ツェツィーリエ・マリー=ルイーゼ・ヴィルヘルミーネ (1922年 - 1979年)
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フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)

1882年4月9日 - 1945年11月17日

ドイツの爵位
先代
フリードリヒ・フランツ3世
メクレンブルク=シュヴェリーン大公
1897年1918年
次代
フーゴ・ヴェンドルフ(ドイツ語版)
メクレンブルク=シュヴェリーン自由州州務長官として
先代
アドルフ・フリードリヒ6世
大公として
メクレンブルク=シュトレーリッツ摂政
1918年
次代
ペーター・シュトゥープマン(ドイツ語版)
メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州州務長官として
請求称号
称号喪失
ドイツ革命による大公国の消滅
— 名目上 —
メクレンブルク=シュヴェリーン大公家家長
1918年1945年
継承失敗の理由
ドイツ革命による大公国の消滅
次代
フリードリヒ・フランツ(大公世子)
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