中野健一
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1934年3月21日 |
身長 体重 | 173 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1957年 |
初出場 | 1957年3月30日 |
最終出場 | 1957年10月24日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。 ■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート |
中野 健一(なかの けんいち、1934年3月21日 -)は、毎日オリオンズ に在籍したプロ野球選手(内野手)。
経歴
法政一高では1951年春季東京大会で準決勝に進むが、沖山光利のいた明治高に敗退。同年夏の甲子園都予選では3回戦で成城高に惜敗。卒業後は法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、遊撃手として活躍。1955年秋季リーグでは打率.383で首位打者を獲得、ベストナインにも選出された。大学同期に長谷川繁雄がいる。
卒業後は 日本石油に入社。1956年の都市対抗では一番打者としてエース藤田元司を擁し決勝に進出。熊谷組を降しチームを優勝に導く[1]。この時のチームメートに花井悠らがいる。同年の第2回世界野球大会に社会人野球日本代表として出場[1]。
1957年に毎日オリオンズ に入団。開幕から一番打者、遊撃手として起用され、同年は68試合に先発出場。二塁手としても出場している。一方で5月19日から6月15日まで42打席連続無安打、当時の新記録となった。非常に期待された選手だったが、同年限りで現役引退。
その後は社会人野球の熊谷組に転じ、1960年の都市対抗に一番打者として出場。決勝で松下電器に延長10回裏サヨナラ勝ち、チームの優勝に貢献した[1]。同年9月には全日本社会人野球選抜チームの一員としてハワイに遠征した[1]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1957 | 毎日 | 91 | 246 | 223 | 15 | 36 | 4 | 1 | 1 | 45 | 14 | 19 | 6 | 6 | 1 | 15 | 1 | 1 | 33 | 1 | .161 | .217 | .202 | .418 |
通算:1年 | 91 | 246 | 223 | 15 | 36 | 4 | 1 | 1 | 45 | 14 | 19 | 6 | 6 | 1 | 15 | 1 | 1 | 33 | 1 | .161 | .217 | .202 | .418 |
背番号
- 7 (1957年)
脚注
- ^ a b c d 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年