丹羽長正

曖昧さ回避 武将の「丹羽長政」とは別人です。
 
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丹羽 長正
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正4年(1576年
死没 寛永7年4月4日(1630年5月15日
改名 宮松(幼名)→長正
別名 長昌
戒名 法性院殿義岳宗仁日榮居士
墓所 福井県福井市の総光寺
官位 従五位下備中侍従
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 良岑姓丹羽氏
父母 父:丹羽長秀、母:陽徳院
兄弟 長重長正藤堂高吉、蜂屋直政、長俊、
長紹(長次)、青山宗勝室、古田重治正室、粟屋勝久室、伊木忠次室、稲葉典通正室、種橋成章室、山田高定室、赤田堅
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丹羽 長正(にわ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名越前国藤枝城主、次いで東郷槇山城主。

略歴

天正4年(1576年)、丹羽長秀の次男として誕生する。母は朝倉氏の一族である堤権右衛門尉教興の姉で、後に陽徳院と号した[1]

天正13年(1585年8月13日、豊臣秀吉より越前国印内村に500石を与えられる[2]。天正15年(1587年)7月に50,000石を加増されて越前国藤枝城主となり、従五位下、備中守に叙任するが、東郷槇山城主であった長谷川秀一が死去すると同城に移り、秀吉から羽柴姓を与えられて侍従に叙任された[2]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に呼応して北国口を防衛したため戦後改易されるが、その後600石で豊臣秀頼に仕えた[2]。しかし慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の直前に大坂城から脱出し[2]、寛永7年(1630年)4月4日、越前福井にて死去した[1]。享年55。法名は法性院殿義岳宗仁日榮居士[1]

脚注

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  1. ^ a b c 二本松市 編『二本松市史 第5巻 (資料編 3 近世 2)』二本松市、1979年2月20日、25-26頁。 
  2. ^ a b c d 高柳光寿、松平年一『戦国人名辞典 増訂版』吉川弘文館、1973年7月20日、186-187頁。 

外部リンク