余晋龢

余晋龢
『最新支那要人伝』1941年
プロフィール
出生: 1887年光緒13年)
死去: 不詳
出身地: 清の旗 浙江省紹興府紹興県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 余晋龢
簡体字 余晋龢
拼音 Yú Jìnhé
ラテン字 Yü Chin-ho
和名表記: よ しんわ
発音転記: ユー ジンホー
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余 晋龢(よ しんわ)は中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。幼耕幼庚

事績

日本に留学し、1906年光緒32年)、東京憲兵練習所を、1911年宣統3年)、陸軍士官学校をそれぞれ卒業した。帰国後は、陸軍部参事、憲兵学校教官を歴任している。1922年民国11年)、青島港政局局長に任ぜられた。

1931年(民国20年)2月、余晋龢は青島市政府で参事、公安局局長を務めた。1933年(民国22年)12月、北京特別市で公安局局長、参議、外交室主任となる。1935年(民国24年)12月、廈門市市長となった。しかし短期間で辞任し、翌年、国民政府外交部特派員に任ぜられた。

日中戦争(抗日戦争)勃発後、余晋龢は中華民国臨時政府に加わる。1938年(民国27年)1月5日、北京特別市市長兼警察局局長に特任された[1]。同年4月27日、臨時政府委員(議政委員会委員。特任官)を兼任する[2]

1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。同日、余晋龢は同委員会委員に特派され[3][4]、北京特別市市長にも重任した[5]1943年(民国32年)1月、華北政務委員会常務委員に昇格し、同委員会建設総署督弁に任命された。2月、全国籌堵黄河中牟決口委員会主任委員に、3月、全国経済委員会常務委員に、それぞれ任命された。

日本敗北後、余晋龢は天津蔣介石の国民政府に逮捕された[6]。その後収監され、時期は不明だが獄死した[7]

脚注

  1. ^ 臨時政府令、民国27年1月5日(『政府公報』第1号、民国27年1月17日、臨時政府行政委員会公報処、17頁)。
  2. ^ 臨時政府令、令字第192号、民国27年4月27日(『政府公報』第15号、民国27年5月2日、臨時政府行政委員会公報処、2頁)。
  3. ^ 国民政府令、民国29年3月30日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、国府1頁)。
  4. ^ 華北政務委員会の人事自体は、発令前の同月22日における中央政治会議で議決されている(『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、182-185頁)。
  5. ^ 公報上では確認できない。
  6. ^ 余子道ほか 2006, p. 1614.
  7. ^ 王娟 2010, p. 18-19.

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。 
  • 王娟「自由学園北京生活学校の設立について」『鶴山論叢』第10巻、鶴山論叢刊行会、2010年3月、1-19頁、doi:10.24546/81002079、hdl:20.500.14094/81002079ISSN 13463888、CRID 1390572174880799232。 
  • 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
中華民国臨時政府
先代
江朝宗
北京特別市長
1938年1月 - 1940年3月
次代
(汪兆銘政権に継続)
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(臨時政府から継続)
北京特別市長
1940年3月 - 1943年1月
次代
蘇体仁
先代
殷同
華北政務委員会
建設総署督弁
1943年2月 - 11月
次代
(廃止)