大久保忠当

曖昧さ回避 大名の「大久保忠方」とは別人です。

大久保 忠当(おおくぼ ただまさ、天正19年(1591年) - 寛永元年1月2日(1624年2月10日))は、江戸時代初期の旗本。大久保忠直の子。母は坂部次郎左衛門某の娘。通称荒之助。兄に大久保忠成。弟に大久保忠景、大久保忠興。姉妹に佐原七左衛門妻、小野高盛妻、大谷末久妻、高尾嘉文妻、松田定平妻。室は久世広宣の娘。子に大久保忠辰、大久保忠昌(甚兵衛)、正木康可(正木康長養子)。

慶長10年、徳川秀忠に仕え、書院番となる。大坂の陣両陣に従軍した。元和5年駿河国田中城城代の任に父の忠直が就いたが、老齢であったために忠当が父に代わって赴く。元和8年暮れに父が没すると、翌年に兄の忠成がすでに没していたために家督を相続する。父の城代の役料500石は還付して残1500石を相続し、同年将軍の上洛に随行している。寛永元年34歳で没する。墓所は理性寺

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