寂照
じゃくしょう 寂照 | |
---|---|
964-1034年ごろ | |
名 | 大江定基(おおえ の さだもと) |
号 | 円通大師 |
没地 | 中国(北宋)杭州 |
宗派 | 天台宗 |
師 | 寂心 |
著作 | 大蔵法数 |
テンプレートを表示 |
寂照(じゃくしょう、応和2年(962年)頃? - 景祐元年(1034年))は、平安時代中期の天台宗の僧・文人[1]。参議大江斉光の子[1]。俗名は大江定基(おおえ の さだもと)。寂昭・三河入道・三河聖・円通大師とも称される[1]。
経歴
三河守として赴任する際、元の妻と離縁し、別の女性を任国に連れて行ったが、任国でこの女性[2]が亡くなったことから、永延2年(988年)、寂心(出家後の慶滋保胤)のもとで出家し[1]叡山三千坊の一つ如意輪寺に住んだ。その後横川で源信に天台教学を、仁海に密教を学んだ。
長保4年6月18日、入宋のため旅立つ[3]。長保5年・咸平6年(1003年)渡海し、蘇州の僧録司に任じられ、皇帝真宗から紫衣と円通大師の号を賜った。また、天台山の知礼から源信の天台宗疑問27条への回答とその解釈をえた。日本へ帰国しようとしたが、三司使の丁謂(ていい)の要請により、蘇州呉門寺にとどまった[1]。その後、日本に帰国する事がないまま杭州清涼山で没した[1]。豊川市西明寺に供養塔がある。
官暦
子孫
子に香基がいたとされる。また、定基の後裔良道は近江国山村郷に住み山村氏を称した。
著書
説話
- 定基が三河守として任国に連れて行った女が亡くなった際、悲しみの余り、しばらく埋葬せずに、女の亡骸を抱いて臥していた。数日後、定基が女の口を吸うと、ひどい死臭がした。さすが定基も耐えられず、女に対して疎ましく思う気持ちが起こり、ようやく女を埋葬した。その後定基は「この世はつらく苦しいものだ」と、発心を起こしたという[7]。
- 出家した寂照が、都で乞食をしていたところ、離縁した妻に会い、元妻に「『私を捨てた報いで、このように(落ちぶれた姿に)なれ』と思っていたが、この通り見届けることができたことよ」と辱めを受けたが、逆に寂照は「この徳により必ず仏心を得られるであろう」と手をすりあわせて喜んだという。[7][8]
寂照については、幸田露伴『連環記』にも採りあげられている。
脚注
- ^ a b c d e f 『寂照』 - コトバンク
- ^ 都から連れて行った女性(『今昔物語集』)、赤坂宿の遊女力寿(『源平盛衰記』七、『三国伝記』十一)、の2つの説がある。『道済集』に、参川入道(寂照)が任地に連れてきた女性が亡くなった後に、都の姑の所に行き、再び任地に戻った際に詠んだ和歌が記されていることから、京から連れて行った女性の説が正しいと考えられている。(竹鼻績『今鏡(下)』講談社学術文庫、1984年)
- ^ 『小記目録』
- ^ a b 『小右記』天元5年正月10日、5月8日
- ^ 『大蔵法数』 - コトバンク
- ^ 寂照 編『大蔵法数 : 一代経律論釈法数 上巻』鴻盟社、1899年。doi:10.11501/817960。
- ^ a b 『今昔物語集』19巻2話
- ^ 『今鏡』第9 348段
関連項目
- 表示
- 編集
この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。 |
- 表示
- 編集