新津勝資
凡例 新津 勝資 | |
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 生年不明 |
死没 | 慶長5年4月8日(1600年5月20日) |
別名 | 孫三郎、義資、勝義 |
戒名 | 台勝院殿応明邦山大居士 |
官位 | 丹波守 |
主君 | 上杉謙信→景勝 |
氏族 | 山吉氏→新津氏 |
父母 | 父:山吉政久 養父:新津勝邦または新津資相 |
子 | 養子:秀祐 |
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新津 勝資(にいつ かつすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上杉氏の家臣。越後国新津城主。新津氏15代当主。上杉二十五将の一人。
生涯
新津氏は、金津氏の支流で、清和源氏平賀氏流の名門である。新津勝邦の婿養子で実父は山吉政久(山吉豊守の父)。
新津(現新潟市秋葉区)の領主丹波守勝資は、上杉家の家臣で利水工学に精通していた澤田半右衛門に、農業用水を確保するための堰の創設を命じました。当時、付近を流れていた能代川を堰き止める一大工事だったが、数年の苦労を重ね、天文2年(1533年)年に一ノ堰が創られた[1]。
第四次川中島の戦いでは他の揚北衆と共に参陣し遊軍として活躍。上杉景勝の時代には新発田重家の乱、小田原征伐、文禄・慶長の役など、ほぼ全ての戦に参戦しており、景勝から多くの活躍を賞されている。その戦いぶりから上杉二十五将に選ばれている。
文禄2年(1593年)、婿養子の秀祐に家督を譲り、慶長5年(1600年)8月に転封先の会津にて戦いに明け暮れた生涯を閉じた。
逸話
脚注
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