板倉勝殷
大名の「板倉勝政」とは別人です。 |
凡例 板倉勝殷 | |
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板倉勝殷とその家族 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代初期 |
生誕 | 文政3年1月12日(1820年2月25日) |
死没 | 明治6年(1873年)8月31日 |
改名 | 金之助(幼名)、勝殷 |
戒名 | 谷神院殿恢覚源性大居士 |
墓所 | 愛知県西尾市貝吹町の長円寺 東京都渋谷区の吸江寺 |
官位 | 従五位下、主計頭 |
幕府 | 江戸幕府 大坂加番 |
主君 | 徳川家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 上野安中藩主 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 | 板倉勝尚 板倉勝明 |
兄弟 | 勝明、分部光貞、鎌之助、勝殷 |
妻 | 鈴木勘次郎の娘 |
子 | 板倉勝明養女、花子、種子ら2男5女 勝敬、勝任 |
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板倉 勝殷(いたくら かつまさ/かつたか)は、江戸時代後期の大名。上野国安中藩最後の藩主。官位は従五位下・主計頭。重形系板倉家8代。
生涯
文政3年(1820年)1月12日、先々代藩主・板倉勝尚の三男として誕生した。安政4年(1857年)閏5月11日、兄で先代藩主の勝明が死去したため、家督を継いだ。同年6月25日、13代将軍・徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下・主計頭に叙任する。安政6年(1859年)2月、大坂加番を命じられる。幕末期には和宮降嫁のために中山道の守備を務めた。ちなみに、「偽官軍事件」として有名な赤報隊事件はこの安中で起こっている。
慶応4年(1868年)1月13日、徳川慶喜から上野碓氷郡の警備の強化を命じられる。同年3月、老臣を上洛させて、新政府に恭順の姿勢を示す。同年4月19日、新政府軍に弾薬を献上する。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還で安中藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官される。8月に東京へ移った。
晩年から死後の家督相続
明治5年3月5日(1872年4月12日)、勝殷は隠居して婿養子の勝任に家督を譲った[1]。ところが、勝任は翌明治6年(1873年)8月19日に隠居し[1]、家督は勝殷が再襲するも勝殷は同月31日に死去した[1][2][3]。享年54。
勝殷の死後、同年10月24日に四女の種子が板倉家の女戸主となり[1]、明治10年(1877年)10月13日に種子の夫の久知が家督を継いだが[1]、明治13年(1880年)1月17日に久知が隠居し[1](直後に離縁して実家の中川家に復籍)、再び種子が女戸主となった[1][3]。明治16年(1883年)12月10日に種子は隠居して養女の花子(実姉、勝殷の三女、勝任の元妻)に家督を譲った[1]。
明治19年(1886年)、花子は2人目の夫に板倉勝観(戸田央、元川越藩主松平康載)を迎え、勝観は同年4月6日に家督を継ぎ[1][4]、同月24日に子爵を叙爵した[1][5]。
系譜
子女は2男5女
父母
- 板倉勝尚(実父)
- 板倉勝明(養父)
正室
- 鈴木勘次郎の娘
子女
養子
系図
数字は当主の継承順。
板倉勝尚1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
板倉勝明2 | 分部光貞 | 板倉勝殷3/5 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
板倉勝任4 | 板倉花子9 | 板倉勝観10 | 板倉種子6/8 | 板倉久知7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
参考文献
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
当主 | ||
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先代 板倉勝任 | 旧安中藩板倉家 1873年 | 次代 板倉種子 |
先代 板倉勝明 | 安中藩板倉家 1857年 - 1872年 | 次代 板倉勝任 |
板倉家安中藩藩主 (1857年 - 1871年) | |
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井伊家 | |
水野家 | |
堀田家 | |
板倉家 | |
内藤家 | |
板倉家 |