生江哲太郎
生江 哲太郎(なまえ てつたろう[1]、1909年(明治42年)12月9日 - 没年不明)は、日本の飛込競技選手・実業家。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。
経歴
1909年(明治42年)12月9日、東京府(現在の東京都)に、慶應義塾大学教授の生江惣太郎の息子として生まれる[2][3][4]。青山学院を卒業後、明治大学法学部に入学した[2]。大学ではラグビーフットボールを行う傍ら、玉川プールで飛込の練習を行い、短期間で上達したために他人を驚かせた[2]。1932年にはロサンゼルスオリンピックで飛板飛込に出場し、8位となった[3][1][4]。同年に行われた全国学生飛込大会では高逆飛込で32.70点、飛板飛込で124.54点を獲得しいずれも優勝した[3]。翌年、1933年の同大会でも高逆飛込で33.2点を獲得し優勝した[3]。1934年に明治大学を卒業し[4]、三省堂に就職した[3]。その後は東京都渋谷区に暮らし[4][3]、日本水泳連盟理事、三共化成常務、三共樹脂工業取締役、東京油業監査役、同取締役を歴任した[4]。弟がおり、結婚していた[4]。
脚注
- ^ a b Tetsutaro Namae Olympedia(2023年7月30日閲覧)
- ^ a b c 弓館小鰐『スポーツ人国記』ポプラ書房、1934年 486ページ、487ページ
- ^ a b c d e f 毎日新聞社『毎日年鑑 1936』1936年 515ページ
- ^ a b c d e f 交詢社出版局 編『日本紳士録 第60版 第2分冊 た~わ 沖縄』帝国地方行政学会、1970年 104ページ、105ページ