英学

英学(えいがく)とは、日本における英語及び英語圏諸国(イギリスアメリカなど)に関する学問・文化全般のこと。狭義においては英語学あるいはこれを中心とした英語主体の学問(英文学など)のことを指す。

幕末黒船来航以前は、西洋の学術はオランダ(ただし、中国経由の漢訳文献もある)から入ってきたために一括して蘭学と呼称されたが、黒船来航後は他の欧米諸国との交流が開始されるようになると、オランダ以外の言語やそれに基づく学術・知識も流入するようになった。このため、英語及びこれによって記載された英語圏の学術・技術に関する学問を「英学」と称するようになった。

日本の英学の歴史

江戸時代

鎖国状態下の英学教育

江戸時代の日本は鎖国状態にあり、英語圏との関係は閉ざされていたが、これらの地域に関する関心度が低かった訳ではない。

文化5年(1808年)のフェートン号事件以後、江戸幕府においてイギリス・アメリカの脅威が議論の対象となり、これらの国々に対する研究が行われるようになった。翌年吉雄権之助らが幕命によって長崎出島のオランダ商館の荷倉役で英語に堪能であったヤン・コップ・ブロムホフより英語の教授を受け、文化8年(1811年)に『諳厄利亜興学小筌(あんげりあこうがくしょうせん)』という会話・単語集が刊行されている。その後、文化11年(1814年)に阿蘭陀通詞本木庄左衛門(正栄)が中心となって編纂した『諳厄利亜語林大成』という6,000語からなる日本最初の本格的な英単語集が出された。天保12年(1844年)には天文方渋川敬直がLindley Murrayの英文法書のオランダ語訳からの重訳『英文鑑』を刊行した。

また、オランダ語中国語による英米関係の書籍を翻訳する動きも現れた。吉雄忠次郎が文政8年(1825年)に出した『諳厄利亜人性情志』や安部竜平が嘉永2年(1849年)に出した『新字小識』、小関高彦が安政元年(1854年)に出した『合衆国小誌』などである。

1848年には、日本に密入国したラナルド・マクドナルドが、幽閉先の長崎・西山郷(現・長崎市上西山町)にあった大悲庵(崇福寺の末寺)で、長崎奉行の命により幕府の公式通訳である阿蘭陀通詞14名に英語を教え、日本初の母語話者(ネイティブ)による公式の英語教師となった。生徒であった森山栄之助は後にペリー艦隊来航時に通訳を務めた[1][2]

また、日本人で最初に生きた英語を話すことができたのはジョン万次郎であろう。彼は英語圏イマージョン・プログラムを受けた日本で初めての人物とも言える[3]浜田彦蔵も漂流したのち、渡ったアメリカで教育を受け、洗礼も受けてジョセフ・ヒコと名を改め、アメリカ市民権を得て、日系アメリカ人第1号となった人物である。1859年に初代駐日アメリカ公使のタウンゼント・ハリスによって神奈川領事館通訳に採用され日本に帰国した[4]

黒船来航後の江戸での英学教育

1853年(嘉永6年)にマシュー・ペリー率いる米国艦隊が来航(黒船来航)し、翌1854年(嘉永7年)に日米和親条約を締結しアメリカの圧力で開国すると、これ端緒として洋学研究と教育の必要性が生じ、外交貿易の面で一部のエリートに国防の手段として英語の習得が急がれるようになった。そのため、江戸幕府はこれまで『蕃書和解御用』で行われていた洋書翻訳事業を独立させることとし、1855年(安政2年)に『洋学所』を江戸九段下に開設。翌1856年(安政3年)には、これを『蕃書調所』(開成所の前身で東京大学東京外国語大学の源流)と改称し、ペリー来航時に米国大統領国書の翻訳を行った箕作阮甫が首席教授に就いた。

幕府は1857年(安政4年)頃から下田函館に加え、後述の長崎横浜で、通訳育成のためにイギリス人やアメリカ人などのもとで英語学習を進めていくこととなる[4]

また、私塾でも英学が教えられるようになるが、ペリー艦隊来航時に通訳を務めた森山栄之助は、江戸・小石川に英語塾を開き、外交官通訳として活躍する人材を多く輩出した[5]

さらに1858年(安政5年)7月に日米通商修好条約が締結されると、本格的に英語通訳の養成が必要となった。

長崎での英学教育

長崎でも、1857年(安政4年)に、幕府は長崎奉行に命じ、長崎海軍伝習所のあった長崎西役所内に『語学伝習所』を設立し、日米通商修好条約締結の翌月の1858年(安政5年)8月には長崎奉行の岡部長常によって英語に特化した『長崎英語伝習所』が設立された。教師には英国領館員のイギリス人ラクラン・フレッチャー(Lachland Fletcher、後の横浜領事)に加え、オランダ人の2名ウィッヘルス(オランダ海軍将校)とデ・ホーゲルが就任し、阿蘭陀通詞の楢林栄左衛門(栄七郎、高明)と西吉十郎(成度)が頭取を務めた。次いで幕府の公式通詞(通訳)たちは、長常から幕府の伝習所以外でも広く英語を学ぶことを命じられ、1858年9月(安政5年)に長崎に寄港した米国船ポウハタン付きの牧師ヘンリー・ウッドや[6]1859年(安政6年)1月に寄港した米国人マクゴーワン(Daniel Jerome Macgowan、瑪高温、マゴオン)らに英語を学んだ[7][8]

1859年(安政6年)4月下旬には米国総領事タウンゼント・ハリスが長崎に入り、開港地となる長崎においてもアメリカの外交拠点を構築するために、ハリスはアメリカ人商人の一人でニューヨーク出身の実業家ジョン・G・ウォルシュ(ウォルシュ兄弟の2番目の弟)を長崎の米国領事に選任する[9]。これに合わせて上海から米国聖公会のジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズプロテスタント初のアメリカ人宣教師として、それぞれ長崎に来日し、ハリスの支援の下、長崎奉行・岡部長常からの要請で崇福寺広徳院に立教大学の源流となる私塾を開設し、鄭幹輔何礼之(大阪洋学校/現・京都大学創設者)、平井義十郎(平井希昌)ら公式通事(唐通事)たちに英学の教授を行った。リギンズは、漢訳の科学書や歴史書、医学書、聖書等を多く頒布し、特に『聯邦志略』は、アメリカ合衆国の独立宣言、歴史、地理、政治、文化、行政、教育等が具体的に書かれており、近世封建社会下にあった当時の多くの日本の志士に影響を与えた[10][11]。また、リギンズは、日本の英学会話書の嚆矢と言われる『英和日用句集』を出版し、現在利用されるローマ字綴りを編み出した[12][13]。1859年11月にはオランダ改革派の宣教師グイド・フルベッキも長崎に来日し、リギンズとウィリアムズの出迎えを受けて崇福寺広徳院に同居し、英学を教授していく。当時は、ハリスが加えた日米通商修好条約の第8条によって、本国人の宗教の自由と居留地内での教会設置が認められ、宣教師は外国人向けの礼拝は行えたが[14]、日本人への宣教活動は禁じられていた。しかし江戸幕府は、上述の通り、開国で増加する外交活動を支える通訳を育成する必要性から語学教育を推進し、長崎奉行を通じて宣教師らに英語教授を要請し、宣教師らは要請を受けて英学教育を展開した。また、1860年8月には米国聖公会の宣教医であるハインリッヒ・シュミットも長崎に来日し、私塾と診療所を設けて英語教育とともに、長崎奉行の認可も得て医療活動と医学教育を行った[15][16]

1862年(文久2年)に長崎英語伝習所は、片淵郷の組屋敷内の乃武館(だいぶかん、旧・長崎原爆病院跡地、旧・済生会長崎病院跡地)の内に移転して『英語稽古所(英語所)』と改称され、1863年(文久3年7月)には、英語稽古所は立山役所の東長屋に移転し、リギンズとウィリアムズに学んだ唐通事の何礼之と平井義十郎(希昌)が同所頭取に任命された[8]。同年(文久3年12月)、英語稽古所は江戸町の活版所跡に移転し、『洋学所』と改称され、ウィリアムズとフルベッキはこの洋学所でも英学を教授する[8][17]。この洋学所へ繋がる幕府の教育機関である長崎英語伝習所の組織は、日本人への布教が許されていなかった外国人宣教師達の良き就職場所にもなった[18]

1864年(元治元年)に、何礼之は長崎の自邸で英学の私塾を開き、さらに1865年(元治2年)には、長崎奉行・服部常純の支援を得て、塾舎を新築して奉行所公認による私塾になると、諸藩及び地役人の子弟を合わせて塾生三百名余(塾生は百数十名、塾外生は二百名)を数える大塾として、江戸にある福澤諭吉が教える一小家塾(慶應義塾の前身)に匹敵する塾として多くの名士を育てた[19][20]

横浜での英学教育

長崎に加えて神奈川・横浜にもアメリカ人宣教師が上陸し、英学教育が進められていくことなるが、1859年10月に米国長老教会の宣教医であるジェームス・カーティス・ヘボンが上海から長崎経由で神奈川・横浜に到着すると、成仏寺本堂を住まいとし、宗興寺に神奈川施療所を設けて医療活動を開始する。翌11月にはフルベッキの同僚であるオランダ改革派のサミュエル・ロビンス・ブラウンデュアン・シモンズも神奈川・横浜に上陸し、ブラウンはヘボンの住む成仏寺の庫裡を間借りして、シモンズは夫妻で宗興寺に居住した。その後、ブラウンは領事からの依頼で英語を指導することとなり、1862年には幕府によってヘボンを中心に組織された『横浜英学所』が開校され、英学教育が行われた。教師にはブラウン、ジェームス・ハミルトン・バラディビッド・タムソンの3人の宣教師が就任し、長崎でリギンズに学んだ石橋助十郎(政方)や太田源三郎らも教鞭を執った。シモンズは、1860年に宣教師を辞任するが、その後も医師として日本で医療と医学教育を行った。

1862年8月には、横浜のイギリス領事館の初代チャプレンとして英国国教会マイケル・ベイリーが来日し、翌年10月にはプロテスタントとして横浜で最初の教会である横浜クライストチャーチ(現・横浜山手聖公会)の初代聖堂が横浜居留地105番(現在の中区山下町同番地)に完成すると、教会の初代チャプレンに任命される。ベイリーは聖職の傍ら、英語塾を開き、日本人に英語を教えた[21]

明治以降

明治以降の日本における英学の幕開けは福澤諭吉に始まる、といって過言ではない。咸臨丸などによる洋行経験もある福澤が慶応2年(1866年)に出した『西洋事情』は広く読まれ、彼が創設した慶應義塾では、ジェレミ・ベンサムヘンリー・バックルなどの著書を通じて英米の歴史・法制・思想などの研究が行われて官民に多くの人材を輩出した。

続いて中村正直サミュエル・スマイルズの『西国立志編』、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を翻訳して、自立・勤勉・節約などの近代資本主義社会の倫理を広めた。この他にも札幌農学校教頭ウィリアム・スミス・クラークに代表されるお雇い外国人同志社を創設した新島襄女子英学塾を創設した津田梅子などの功績は高く評価されている。

英文学の普及は少し遅れて1880年代以後のことになる。井上哲次郎らによる『新詩体抄』の翻訳、坪内逍遥の『小説神髄』による紹介などを通じて英文学が伝えられ、明治16年(1883年)2月に河島敬蔵が、日本初となる原本によるシェイクスピア劇の完全な逐語訳『ジュリアス・シーザー』を『欧州戯曲ジュリアスシーザルの劇』として発表した[22]。同年10月には井上勤チャールズ・ラム版のシェークスピアの『ヴェニスの商人』を『西洋珍説人肉質入裁判』というタイトルで刊行している[23]。坪内は後に東京専門学校(現早稲田大学)で英文学を教えた。東京帝国大学でも明治24年(1891年)に英文学科が置かれて夏目漱石土井晩翠らを輩出する。

しかし、1890年(明治23年)にはビスマルク憲法ドイツ帝国憲法)を模範とした大日本帝国憲法が施行され、ドイツを手本とした国家・法体系が確立されていくにつれて、イギリス・アメリカに対する語学文学以外の面での関心は衰退し、代わって獨逸学が大きな影響を持つようになる。以後の英学は英語とそれに関連した学問研究に縮小されていくことになるが、1910年代に入ると「英語学」と「英文学」の分離が生じ、更に1930年代に入ると「米文学」や「英語教育」の分野も独立して考えられるようになっていった。

戦前日本における英語ブームとしては、斎藤秀三郎英和辞典、英語文法書といった、その後の日本の英語学(のみならず、英語に関係する学問分野)に大きな影響を残した業績が生まれた(日本の学校英語の範型は、斎藤秀三郎の『実用英語文法』 (Practical English Grammar) で確立されており、また、彼の経営した「正則英語学校」には、英語学者市河三喜や、英米法学者高柳賢三等が学んでいる。加えて、彼の著作である『熟語本位英和中辞典』は、その後の英和辞典に大きな影響を与え、今日に至っている)。

1941年(昭和16年)になると、ABCD包囲網(夏)に反発した日本軍真珠湾攻撃マレー沖海戦(いずれも12月)を起こしたため、英語は敵性語とされ、軍部を中心に英単語の日本語への置き換えが進められた。

第二次世界大戦後

1945年(昭和20年)9月2日には第二次世界大戦の敗北により、日本は1952年(昭和27年)4月28日サンフランシスコ講和条約が発効し主権回復するまで、GHQ(実質的には主にアメリカ)の進駐を受けた。連合国軍占領下の日本において、復興面でも多大な支援を受け、政治経済文化のあらゆる面で密接なつながりを持つようになった。

第二次世界大戦までは、英米両国がいずれも大国(多極体制)であった。しかし、冷戦時代には、アメリカが超大国二極体制)となったため、超大国アメリカの政治的・経済的影響から義務教育中等教育にもアメリカ式英語が取り入れられ(英語 (教科))、一般の人々も英語に触れる機会は増え、どん欲にカタカナ英語として日本語の中に定着するなどの動きが活発になった。

冷戦終結後の現在は、アメリカを中心としたグローバル経済の到来が語られ、世界ビジネスに不可缺な道具として、世界共通語としての英語が重要視されている。また、不況によるリストラを受けた労働者の能力向上学習に対して国・政府の補助が出るなどから、英会話教室のビジネスが一つのマーケットとなっている。

註釈

  1. ^ 河元 由美子「二つの「日英語彙集」 : マクドナルドの原典とマクラウドの編集によるもの」『早稲田大学日本語研究教育センター紀要』第10巻、早稲田大学日本語研究教育センター、1998年3月、63-95頁、ISSN 0915-440X。 
  2. ^ 石原 千里「ラナルド・マクドナルドの生徒たち」『英学史研究』第1991巻第23号、日本英学史学会、1990年、57-82頁、ISSN 1883-9282。 
  3. ^ 但しジョン万次郎は偶然英語教育を受けることになっただけであり、英語習得のために自ら渡米したわけではない。
  4. ^ a b 清水 貞助「幕末における英学の発達について : 時代思潮を中心として」『研究紀要』第14巻、立正女子大学短期大学部、1970年12月、19-35頁、ISSN 03855309。 
  5. ^ 飯田 鼎「福地桜痴と福沢諭吉 : 『懐往事談』と『福翁自伝』をめぐって」『三田学会雑誌』第82巻第4号、慶應義塾経済学会、1990年、669-693頁、ISSN 00266760。 
  6. ^ 石原千里「1858年長崎におけるヘンリー・ウッドの英語教育」『英学史研究』第2001巻第33号、日本英学史学会、2000年、13-27頁、ISSN 1883-9282。 
  7. ^ 許 海華「幕末明治期における長崎唐通事の史的研究」、関西大学、2012年9月20日、doi:10.32286/00000332。 
  8. ^ a b c 茂住 實男「英語伝習所設立とその後」第1980巻第12号、日本英学史学会、1979年、ISSN 1883-9282。 
  9. ^ 在日米国大使館と領事館 『長崎アメリカ領事館の歴史』 2022年4月4日
  10. ^ 海老沢 有道,大久保 利謙,森田 優三(他)「立教大学史学会小史(I) : 立教史学の創生 : 建学から昭和11年まで (100号記念特集)」『史苑』第28巻第1号、立教大学史学会、1967年7月、1-54頁、ISSN 03869318。 
  11. ^ 劉 建輝「もう一つの「近代」ロード : 19世紀の日欧交流における広東、上海の役割」『「日本研究」再考 : 北欧の実践から』、国際日本文化研究センター、2014年3月、215-228頁。 
  12. ^ 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 『英学会話書による近代語研究』 常盤智子
  13. ^ 立教史データベース 『聖公会 修史夜話 (其四)前島生/ヘボン式羅馬字の始 ―リギンズ長老の業績―』 基督教週報第69巻第18号 1935年01月11日
  14. ^ 中島耕二「フルベッキ博士の生涯と日本の近代化」『新長崎学研究センター紀要』第1号、長崎外国語大学、2022年3月、175-193頁。 
  15. ^ 園田健二「幕末の長崎におけるシュミットの医療活動」『日本医史学雑誌』35(3), pp. 33?48
  16. ^ 藤本 大士「近代日本におけるアメリカ人医療宣教師の活動 : ミッション病院の事業とその協力者たち」、東京大学、2019年3月。 
  17. ^ 杉本つとむ「続・幕末の洋学事情--近代の発信地,長崎と蘭医と近代教育」『早稲田大学図書館紀要』第42号、早稲田大学図書館、1995年12月、1-55頁、ISSN 02892502、NAID 40003930216。 
  18. ^ 長崎市 長崎Webマガジン ナガジン 発見!長崎の歩き方 『長崎ハイカラ女子教育の歴史』
  19. ^ 大久保 利謙「幕末英学史上における何礼之 : とくに何礼之塾と鹿児島英学との交流」『研究年報 1977』第6巻、鹿児島県立短期大学地域研究所、1978年3月、26-41頁。 
  20. ^ 意志力道場ウォーク 『日本を変えた出会い―英学者・何礼之(が のりゆき)と門弟・前島密、星亨、陸奥宗光―』 私の散歩道,丸屋武士,2012年6月1日
  21. ^ 横浜山手聖公会公式Web 聖堂(礼拝堂)について 『横浜クライストチャーチ設立当時と各代聖堂の内部』
  22. ^ 和歌山県・和歌山ふるさとアーカイブ『紀の国の先人たち 河島 敬蔵』
  23. ^ 平 辰彦「『ヴェニスの商人』と『何桜彼桜銭世中』その台本と上演をめぐって」『英学史研究』第1995巻第27号、日本英学史学会、1994年、165-178頁、ISSN 1883-9282。 

参考図書

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    • (1978年)、英語教育論争史、2巻、大修館書店。(ISBN 4469141313)
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  • 田中 啓介 (1985年)、熊本英学史、本邦書籍。
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  • 重久 篤太郎 (1982年)、日本近世英学史、増補版、名著普及会。
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  • 高梨 健吉
    • (1979年)、幕末明治英語物語、研究社出版。
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関連項目