近藤晴彦
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県焼津市 |
生年月日 | (1936-04-27) 1936年4月27日 |
没年月日 | (2018-01-30) 2018年1月30日(81歳没) |
身長 体重 | 175 cm 65 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1959年 |
初出場 | 1959年 |
最終出場 | 1960年10月5日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。 ■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート |
近藤 晴彦(こんどう はるひこ、1936年4月27日 - 2018年1月30日[要出典])は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。
来歴・人物
静岡県焼津市に生まれる。静岡高等学校では1年生からレギュラーとなり、投手、外野手として活躍。1953年秋季中部大会に進むが、1回戦で岡崎高との乱打戦の末に敗退、春の選抜出場を逸する。翌1954年夏の甲子園県予選でも優勝候補筆頭と目されていたが、1回戦で浜名高に逆転負けを喫する。高校1年下のチームメートに捕手の種茂雅之がいた。
卒業後は早稲田大学へ進学。東京六大学野球リーグでは1、2年生の時に2回の優勝を経験する。1956年春季リーグから外野手のレギュラーとなり、同季は長嶋茂雄に続く打撃ベストテン2位を記録。エース木村保を擁し、同年の全日本大学野球選手権大会に出場するが、準決勝で村山実らのいた関大に敗れる。1957年秋季リーグは病で戦列を離れるが、復帰後は再び中心打者として活躍する。
1959年に大洋ホエールズに入団[1]。強肩好打の外野手として期待され、1年目から一軍に定着。5月には先発出場を果たし、主に中堅手として55試合に起用された。翌1960年は出場機会が減るが、準レギュラーとして大洋のリーグ優勝、日本一に貢献。しかし打撃成績は低迷し、同年限りで現役引退する[1]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1959 | 大洋 | 55 | 64 | 58 | 10 | 12 | 1 | 0 | 1 | 16 | 2 | 1 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 | 0 | 12 | 1 | .207 | .246 | .276 | .522 |
1960 | 31 | 32 | 29 | 3 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | .069 | .129 | .103 | .232 | |
通算:2年 | 86 | 96 | 87 | 13 | 14 | 2 | 0 | 1 | 19 | 2 | 1 | 0 | 4 | 0 | 5 | 0 | 0 | 17 | 1 | .161 | .207 | .218 | .425 |
背番号
- 7 (1959年 - 1960年)
脚注
- ^ a b プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、234ページ
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 近藤晴彦 - NPB.jp 日本野球機構
- 表示
- 編集