醍醐恒男
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県市川市 |
生年月日 | (1949-11-22) 1949年11月22日(74歳) |
身長 体重 | 178 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手、外野手 |
プロ入り | 1967年 ドラフト6位 |
初出場 | 1968年 |
最終出場 | 1973年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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醍醐 恒男(だいご つねお、1949年11月22日 - )は、千葉県市川市出身の元プロ野球選手(捕手、外野手)・コーチ。
来歴・人物
習志野高校では3年次の1967年、捕手・4番打者として同期の石井好博とバッテリーを組み、東関東大会決勝で竜ヶ崎一高を破って夏の甲子園に出場[1]。準々決勝の富山商戦では5安打を記録し、決勝では広陵高の宇根洋介(近大 - 電電中国)から適時三塁打を放ち1-7で勝利、千葉県勢初のチーム全国優勝に貢献。他の高校同期に3番打者の池田和雄外野手がいる。8月末からは全日本高校選抜の一員としてアメリカ西海岸・ハワイ遠征に参加し、打力とインサイドワークに優れた捕手として期待され、1967年のドラフト6位で阪急ブレーブスに入団[1]。しかし出場機会に恵まれず、外野手に転向。1971年オフの第2回選抜会議(トレード会議)の対象となり、指名を受けた南海ホークスへ移籍[1]。ここでもあまり活躍の場はなく、1976年限りで引退[1]。一軍で4試合に出場しているが、全て偵察要員としての起用に終わった。
引退後は南海で一軍コーチ補佐(1977年)・二軍バッテリーコーチ(1978年 - 1979年)・二軍ブルペンコーチ(1980年 - 1981年)・二軍打撃兼捕手コーチ(1982年)、打撃コーチ補佐(1984年 - 1985年)、スコアラーを務めた。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1968 | 阪急 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- |
1972 | 南海 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- |
1973 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
通算:3年 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- |
背番号
- 48(1968年 - 1971年)
- 52(1972年 - 1977年)
- 72(1978年)
- 86(1979年 - 1982年、1984年 - 1985年)
脚注
- ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、310ページ
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 醍醐恒男 - NPB.jp 日本野球機構
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