鈴木信教
鈴木 信教 | |
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1843年 - 1892年 | |
鈴木信教像(如宝寺) | |
生地 | 出羽国村山郡 |
没地 | 福島県安積郡 |
宗派 | 真言宗 |
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鈴木 信教(すずき しんきょう、1843年(天保14年) - 1892年(明治25年))は幕末から明治初期の僧、社会事業家。孤児や貧しい子供たちの養育などで知られ[1]、育てた子供の数は200人とも言われる[2]。
人物
1843年(天保14年)、出羽国(山形県)村山郡生まれ。7歳で出家して陸奥国(福島県)安達郡の相応寺で修行、13歳からは京都の智積院で修行、その後は安達郡の東福寺、次いで息王寺の住職となり、1868年(明治元年)からは安積郡郡山町(福島県郡山市)の如宝寺の住職となる[3]。
当時の郡山地域は戊辰戦争などで荒れ果てており、生まれたばかりの子供を育てられない家庭も多かったため、そうした子どもたちを引き取り、寺にて自費で育てて教育したり[4]、「門前縞」という織物を教えたという[3]。生涯で育てた子供の数は約200人と言われる。
また、盛隆舎(後の郡山市立金透小学校)の設立に協力した上、自ら教鞭をとり、新田開墾に協力するなど、安積開拓にも貢献した[5]。若くして安積疏水の必要性を説き、そのために全財産を投げ打った小林久敬は晩年、信教が世話をしていたと伝えられる[6]。
1892年(明治25年)10月2日没。墓は市内の如宝寺にあり、福島県指定史跡に指定されている。
脚注
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